森林税3

それでは、実際に森林税によってどのように間伐を進めるのか。前回にも述べたとおり、地域にある木材を「持続可能な社会を実現するために欠かせない自給可能な資源と捉える」ということを前提として、続けたいと思います。

 山の木が高く売れなくなってしまい森林所有者の育林への意欲がなくなった、ということが人工林の手入れが遅れてしまっていることの理由としてよくあげられますが、私は、森林所有者一軒あたりの所有する森林面積が少なく、もともと所有者一軒一軒では林業としての経営が成り立たない、ということも原因のひとつなのではないかと考えます。

 この問題を解決するために、森林組合などのコーディネーターとも呼べる主体が、小規模の山をまとめて団地化し、木を切り出しても赤字にならないように工夫しなければならないのですが、現場で実際に働いてみると、このまとめる作業に大きな手間のかかることがわかります。でも小さな森林の所有形態は動かしがたいことですから、単に間伐作業の手間賃だけではなく、小さな森林の所有者を特定し、境界を確認し、手入れのOKを取り付ける手間賃にこの森林税を利用することが、これから先の資源管理という点でも重要な役割を果たすことになるはずです。

 ただ、こうした税金を利用した補助制度は、不公平の生じない活用という宿命からとかく
最大公約数的な機能しか持たなくなってしまいがちです。せっかく「県」というローカルな単位で集めるお金ですから、県内の各地域、大げさに言ってしまえば沢ごとに異なる事情にあわせて、柔軟に活用できる仕組みを、現場の人たちもいっしょになってつくりあげるようにすることが、無駄の無い税の使い道に結びつくと考えます。

氏神様の伐採

氏神様境内の枯れ木を切る手伝いを二日間やらせてもらいました。

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 最初に神主さんから話があったのは、3ヶ月ぐらい前だったと思います。本殿のすぐ横にある枯れたサワラを伐るにあたって、どんな段取りでやれば良いか、という話がありました。その後、毎年この神社の木を伐っている村の人から電話があり、今回の作業の手間のかかる木を手伝わせてもらうことになりました。

 実はウチの村の神主さんのもうひとつの家業が金物屋さんで、いつもちょっとした商売道具を買っているのです。今回もそんな機会の立ち話からお声がかかりました。大切な氏神様の境内の作業を手伝わせてもらえたことで、少しだけ村人に近づくことができたような気がして、自己満足しています。

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作業はまる二日間、クレーンを動員しての大掛かりなものでした。これは切り落とした枯れ枝のほんの一部分

森林税2

長野県では、来月の議会で承認されれば、来年度から導入という方針で、民有林間伐の推進などを目的に、個人と法人県民税に上乗せする形で、森林づくり県民税の準備が進められています。先日、この税をテーマにしたローカル番組に出させてもらったことを機に、自分の考えをまとめてみたので、アップします。

 私は導入には条件付で賛成です。なぜなら、今の森林という現実から出発する「社会の仕組みづくりのため」の財源が、どこにもないから。

 木材資源を、持続可能な社会の重要な部分を担うこの国に数少ない自給可能な資源であると考えたうえで、まず、めざす森林・林業と社会のあり方を以下のように定義すると、どうしても新たな財源が必要になるのです。

 めざす社会とは、「森林資源を使い尽くしてしまわない― つまり当面は成長量分を、なるべく輸送エネルギーのかからない方法で、利用する社会」であり、これに付随して、森林所有者に対して、手入れの意欲を失わない程度の木材の売上げが、その意欲に見合う分※保障され、地域の製材所などを含めた、林業関係の生産から加工までの雇用が保たれる社会です。

 ※印の「保障され」と表現したのは、森林のもつ公益性を考えると、ある部分までは受益者が保障をする必要があるという理由からで、正しい保障のためには、所有者の意志と努力により、それがどの程度保たれているかを、個々に評価する仕組みを設けることも欠かせません。

つづく

森林税

県が導入を考えている森林税について、今夜NHKローカルのテレビで県知事も交えた討論番組があり、何かあればひとこと(ほんとに一言だけ)述べよ、と呼んでくれました。19時30分からの「どうする信州」という番組です。お時間と、受信できる環境にある方は、ご覧になってみてください。さぁ、もう出かけなくては…。

限界集落なんて

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造語の新鮮さには人の意識をひきつけるものがあります。近頃ローカル新聞を賑わせている限界集落という言葉、65歳以上の人の数が集落の半分を超えるところを指すそうで、そういうところでは自治的な活動や伝統的な行事が続けられなくなる恐れがあるという、ひとつの目安に使われるようです。

 「もう限界だ」「限界を超えてしまった」などと日頃からネガティブな使い方をしている言葉ゆえ、恐らく命名者の意図とは逆に、私はこの限界集落に「お先真っ暗」というイメージを持ってしまいました。その限界集落を抱えるご近所北相木村の文化祭に先日おじゃまして目にした印象的な光景は、「限界集落、いやな言葉だね。みんなで頑張って、そんなイメージふっ飛ばそう」と結成されたグループの、フォークソング演奏でした。

 今日はその北相木村にある山村留学センターの収穫祭。何が「限界」なもんですか、みんな仲良く、元気なもんです。限界を迎えているのは都市も同じはず。いやむしろ、限界社会にあっては、存外山村の方が健康的で正常な人が多いと思うのです。
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村にオルガンがやってきた

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パイプオルガンが村にやってきました。お披露目の演奏会では、その響きに心が透きとおるような感覚をおぼえました。オルガンは、建設中の村の中学校で、これからずっと子供たちの音楽教育を手伝ってくれることになっています。中学生の娘が、なんとも羨ましい!!

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山村での起業を考える

近所にとても起用な人がいます。家を建てたとき、親戚の山で木を調達し、中古製材機を敷地内に設置して夫婦で製材。大工は、大工のバイトをしながら職業訓練校に通いマスター。配管も自前。瓦ぶきは屋根やでバイトして、材料もそこで安く調達と言った具合。基礎工事だけは外注だけれど、バイト先の大工さんと組んでいた基礎屋さんなので、気心が知れている。

 木は家の材料である。しかるに、その木が値打ちの無いもののように山に捨てられている。だから、自分で住む家はその捨てられてしまうものを出して建てる、と言う思想をしっかりと持って、やり遂げてしまった。そういう人だから、木工品や細工はお手のもので、あちこちから声がかかり、忙しい日々をおくっています。

 先日、その人と話していて改めて感じたことがあります。山村での起業は、手に職さえあれば明日からでもできるかもしれない(大事なことは、お客が来るかどうかということです)。つまり、田舎では信頼関係を築くことができ、体を動かすことができれば、何かしらの仕事に就くことができ、自分ひとりならば餓死することはないだろう、ということ。

 山村に必要なのは、お金よりも人材。言い換えれば、多様な人たちがもたらす活気です。人が集まれば、何もかも食い尽くされてしまったように感じる過疎の進んだ地域に、おだやかに生気が戻るに違いありません。それは、子供たちの声であり、労働の対象としての山であり、農地から立ち昇る行く筋もの煙であり、メインストリートに点在する店先での世間話でしょう。

 しがない個人事業主ではあるけれど、都市から移り住み、今山村で食っている自分のことを考えると、何の技能も持たない自分をここまで活かしてくれた多くの人の力を改めて感じます。その経験を思うと、田舎への移住を考えつつ悶々としている人が居るならば、「地域を愛することができるのなら、とにかくおいで」とそそのかしたい。あらかじめ人を頼りに飛び込むというのは良くないかもしれないけれど、「田舎は、やる気のある人は、ぜったいに見捨てないよ」とも。